中近世ドイツ都市史を研究する渡邉さんの日々 2009年夏からドイツに留学中(2013年9月に帰国しました)


by schembart

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キキの小さな配達屋さん

2009年も残すところ1日となりました。

学生寮にこもって論文執筆に励みながらも、息抜きにDVDを見たりもしています。先日街に出て買い物をしたときに、衝動買いしてしまいました。ドイツ語ですので、なるべく内容の易しいものと、何度も見られるように、ぼくの好きなものを選んできました。

『魔女の宅急便』
『フォレストガンプ』

さっそく昨夜は『魔女の宅急便』を見まして、すっかりといい気分になってしまいました。

ドイツ語だとこんな感じです。

年越しは『フォレストガンプ』見ながら、のんびり過ごそうかと思います。
それでは、みなさま、どうぞ良いお年をお迎えください。

ちゃお、2009年。
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by schembart | 2009-12-31 04:44 | 映画 | Comments(0)

昔の寸法について

久しぶりに街へ出て買い物へ行ってきました。

クリスマス市のにぎわいもどこへやら。
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論文執筆は、どうにもこうにも、牛歩のごとく、といった具合です。のっそりとではありますが、なんとか前には進んでおります。クリスマス休暇で必然的に缶詰状態となり、論文執筆には最適な環境であるとはいっても、そんなにうまく転がっていくものでもないのです。ぐっとこらえながら、まだまだ頑張らなくてはいけません。

話は変わりますが、昔の度量衡というのは、本当にやっかいなものです。そもそもぼくは、数値というものが全般的にとっても苦手なのです。5ケタ以上になると、それが人口数であろうと面積であろうと、何かの重量であろうと、もうわけがわからなくなってしまいます。百万円なら「おおすごい」と思うけども、百万ユーロと言われても「うーむ」と唸るしかありません。よくイメージがつかめません。

そんなぼくが論文では、森林の面積が云々とやっているのですから恐ろしいものです…。しかも当時は、地方によって使用している尺度も違うし、それも時代によってずいぶんと変っていきます。それに、測る対象によっても使用する尺度はさまざまで、ほんとうにややこしいのです…。そんなことをぼんやりと考えながら市庁舎前で市電を待っていたら、ふと市庁舎の壁に面白いものを見つけました。

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1871年までアウクスブルクで使われていた長さの寸法・尺度です。上から、

1/2クラフター(木材)
1エレ(亜麻布)
1エレ(バルヘント布=綿と麻の混合織物)
1ヴェルクシュー(建築のさいの尺度)

とあります。アウクスブルクの市民たちは、この尺度を基準にして木材を測ったり、織物の寸法を測ったりしていたのですね。寸法の違いはさまざまな諍いの種となったので、ひとびとの目に触れる市庁舎の壁にこうして基準となる寸法・尺度を掲げることは、都市の平安のためにも重要な課題であったのでしょう。

都市参事会は、度量衡だけではなく、市場での日常品売買にも介入しています。例えば、パンの値段は都市当局によって決められた価格でのみ売り買いされることが許されました。ですので、穀物不足のときには、価格の調整ができないので、その分パンの大きさはどんどんと小さくなっていくこととなります。むしろそのほうが、ひとびとの不満を招くことになったのでないかな、と勝手ながら想像をしてしまうのですが、どうでしょう…。

同様なことが木材に関しても言えそうです。

ヴェネツィアの都市政府が17世紀初頭に発布した法令には、次のような興味深い記述があります(下線強調:渡邉)。

**************
薪用の木材に関し、われわれの先人たちによってこれまでさまざまな時代になされてきた多くの議論においては、この都市の多くの住民が必要時に1カッロ〔1カッロは約4立方メートル〕当たり25ソルドの価格で短い木材を購入できるようにすべきである、という情愛のこもった要求が表明されてきた。実際、過去においても、欠如時に必要な量の木材が供給されていないという不満は起きているが、それでも先人たちは価格を上昇させることは決してせず、むしろ、価格はそのままにして木材の長さを短くするという判断を下した。(後略)

ピエロ・ベヴィラックワ(北村暁夫訳)『ヴェネツィアと水:環境と人間の歴史』岩波書店、2008年、62頁の引用から
**************

アウクスブルクでは同様な規定をまだ見たことはありませんが、探せば見つかりそうな予感もしますので、ちょっと頭の片隅に置いておこうと思います。当時の感覚からすると、やっぱり価格の上昇こそはなんとしても避けるべき事態であったようですね。それよりは、パンの大きさを小さくしたり、薪用の木材の長さを縮めたりすることのほうが、より「情愛のこもった」政策であるとされていたみたいです。

さあ、論文執筆、がんばろう…。もうひと踏ん張り(だと思いたい)。
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by schembart | 2009-12-29 23:18 | 留学生活 | Comments(0)
年の瀬ですので、この一年間の研究成果を振り返ってみたいと思います。

残念ながら論文は書けませんでした。活字となったのは、昨年11月に報告させていただいた歴史学研究会ヨーロッパ中近世史合同部会の報告要旨だけでした。

〔報告要旨〕「中近世ドイツ都市の木材供給:アウクスブルクの事例から」『歴史学研究 月報』 590、2009年2月、2-4頁。

口頭発表は、以下の二つ。

第59回 日本西洋史学会(2009年6月14日 専修大学 生田校舎 10号館3階10315教室)
「中近世アウクスブルクの木材供給―都市の森林所有とレヒ川の筏流し―」

宗教改革史研究会(2009年5月2日 早稲田大学26号館301会議室)
「“如何にして都市共同体に木材を供給するか…”―中近世アウクスブルクの木材供給―」

題目からもお分かりのように、なんのことはありません、この一年間はずっと同じテーマを繰り返して、あーでもない、こーでもないと頭を悩ませていたのです。こういうのは、正直なところ、あんまり格好の良いものではありません。周到な準備と明晰な分析力があれば、一度学会などで口頭報告をして、それを論文として学術雑誌に掲載、というなんとも理想的なパターンを踏むこともできたはずなのですが…。仕方がありません。明晰な論理展開があんまり得意でない分、少しずつ丁寧に内容を深めていくことしかぼくにはできません。

年末年始で学生寮がしんとしているうちに、西洋史学会での報告をもとにした論文の執筆に取り組みたいと思っています。こちらでの文書館での史料調査のおかげで、半年前の報告内容をより深めることができるはずです。自分の尻を叩くつもりで、ここに宣言いたします、「ぼくはこの年末年始、投稿論文の執筆に励みます!!」。

10月からはドイツでの研究生活もぶじに始まりました。アウクスブルク市立文書館の害虫被害など、予期せぬニュースもありましたが、躊躇する暇もなく文書館での史料調査に取り組むこととなり、むしろ根が怠け者の自分には良かったのかもしれません(嘘です。強がりです。そう言って慰めているだけです)。でも、この3ヶ月間で、ずいぶんと歴史学者としての力はついたように感じます。もちろん、まだまだなのですが。その一方で、ドイツ語会話のほうは、どうしたものか、まだまだです…。

2010年の前半、アウクスブルク市立文書館が閉鎖されている間は、ぼくの博士論文のもうひとつの柱となるはずのニュルンベルクの事例研究に取り組む予定です。指導教授のキースリング先生からは「1月からはさっそくニュルンベルクの文書館で調査ですね。向こうの文書館員に連絡しておきます」とお尻を叩かれましたので、のんびりとしている暇はなさそうです…。のぞむところです…。

ですが、まずは論文執筆です。がんばろう。
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by schembart | 2009-12-27 04:57 | 研究 | Comments(0)
ゲッティンゲンの環境史研究グループ(「環境史コロキウム」)のサイトをご紹介します。こちら

2004年から始まった大学院コレーク「学際的環境史:中央ヨーロッパにおける自然環境と社会的な振る舞い("Interdisziplinäre Umweltgeschichte. Naturale Umwelt und gesellschaftliches Handeln in Mitteleuropa")」のサイトです。

大学院コレーク(Graduiertenkolleg)というのはドイツの学術研究を支える重要な組織なのですが、数名の教授陣と博士課程の学生(Doktorand)やポスドクなどの研究者たちが集まり、とりわけドイツ学術振興会(Deutschen Forschungsgesellschaft=DFG)の公的な助成を受け、特定の研究テーマのもとで数年間にわたって共同研究を行う研究グループのことです。たとえば、この「学際的環境史」は、2013年までドイツ学術振興会による助成が決まっているようです。

ゲッティンゲンの環境史研究の歴史は、1980年代初頭まで遡ります。ドイツや日本では、今でこそ「環境史」を掲げる大学の学科や研究グループは珍しくはなくなりましたが、80,90年代では、このゲッティンゲン「環境史コロキウム」がドイツではほぼ唯一の学術グループであったといっても過言ではないように思います。重要な成果をしっかりと世に残しています。

Herrmann, Bernd (Hg.): Mensch und Umwelt im Mittelalter, Stuttgart 1986.
『中世の人間と環境』
Herrmann, Bernd (Hg.): Umwelt in der Geschichte, Göttingen 1989.
『歴史のなかの環境』
Schubert, Ernst / Herrmann, Bernd (Hg.): Von der Angst zur Ausbeutung. Umwelterfahrung zwischen Mittelalter und Neuzeit, Frankfurt a. M. 1994.
『畏怖から搾取へ:中世から近代にかけての環境経験』

これらすべてがゲッティンゲン「環境史コロキウム」の成果です。創設時からかわらず本研究グループの指導的立場にあるのは、ゲッティンゲン大学のベルント・ヘルマン教授(Prof. Dr. Bernd Herrmann)です。他には、以前に紹介した『天の采配により』の編者でもあるマンフレット・ヤクボフスキー=ティーゼン教授(Prof. Dr. Manfred Jakubowski-Tiessen)などもこの大学院コレークには携わっております。

とてもありがたいことに、2004年以降の本研究グループの成果『ゲッティンゲン環境史コロキウム論集』が本サイト(Publikationenのところです)で公開されています。

以前に紹介しました研究大会「地域における環境史」では、「地域史(とくにシュヴァーベン)」がより前面に出ていましたが、それにくらべるとゲッティンゲン環境史研究グループでは、「環境史」それじたいへの関心がより強く感じられます。こういう研究グループの成果に対しては、「統一感の欠如」であるとか「議論のばらつき」が目につくという批判がつきものです(そして、その批判にも十分な根拠があるのですが)。本研究グループの活動も、もちろんそのような難しさを内包しているとは思うのですが、その豊富な研究蓄積から、あるいは「学際化」を掲げるその研究の姿勢からは、学ぶべきことはたくさんあるように思います。なにはともあれ、ドイツにおける環境史研究の動向を知るうえでは、30年近くの伝統をもったゲッティンゲン環境史コロキウムの活動を無視することはできません。日本でももっと紹介されてしかるべき研究成果であると思います。
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by schembart | 2009-12-25 01:30 | サイト紹介 | Comments(0)
アウクスブルク市立文書館に関するニュース記事を見つけました。

指導教授のR.キースリング先生のコメントも載っておりまして、しかも、少し照れくさいのですが「日本からの研究者」としてぼくのこともほんのちょっぴり言及されています。でも、アウクスブルク市立文書館が世界中の研究者から注目されているということのひとつの証左となり、それがほんの少しでも都市当局の文書館対策に影響を及ぼし得るとしたら、それはぼくにとっても本当に嬉しいことであります。良い方向へ事態が展開することを祈るのみです。

ちっちゃくですが、害虫被害にあった史料の写真も載っています。

こちら。以下に意訳にてご紹介します。

****************
「ジンサンシバンムシがアウクスブルク市立文書館の史資料を食いつぶす」

小さい大食漢がアウクスブルク市立文書館を食いつぶす。その正体は、たったの3ミリメートルのジンサンシバンムシ。『害虫図鑑』には、「貯蔵物を食いつぶす雑食昆虫」と記されている。数ヶ月前から、この雑食昆虫が特別な意味をもつ貯蔵物を食い荒らしている。文書館に保管された歴史的に価値深い史料である。全世界からの研究者が愕然としている。

「実際、その影響は甚大です」、アウクスブルクの研究者で歴史学の教授でもあるロルフ・キースリング氏はそう語ってくれた。彼は市立文書館後援会の所長も務めている。キースリング氏によると、現在世界中から数多くの研究者たちが市立文書館でさまざまな研究に取り組んでいるという。そのなかには日本人の研究者もいて、彼はある交換プログラムの一環でアウクスブルクの森林政策に関する博士論文を準備しているとのことだ。

被害のほどは甚大で、文書館1階フロア全体が17℃まで温度を下げられることとなった。12月23日から市立文書館の大部分の史資料は、10ヵ月間ほど使用することができなくなる。その間、これらの史資料は、ジンサンシバンムシを退治するため窒素加工された特別な部屋に置かれることとなる。早くて2010年9月には、証書、公文書、事務記録などの古文書へのアクセスは再開される見込みである。

アウクスブルク市立文書館は世界中の注目を集めてきた。ここには、2000年以上の歴史を持つ帝国都市アウクスブルクの750,000点におよぶ史資料が保管されている。そのうちのおよそ半数が補修されなくてはならない状態にある。

市立文書館の指導陣とともにキースリング氏は、すでに数年前から約束されているように市立文書館の予防措置を施された梳毛紡績工場跡地への移転がついに実現されるよう強く願っている。というのも、害虫駆除を施した史資料をこれまでの文書館の場所―問題の発生源である市場のすぐわきに位置している―へと戻すことはあまりにも危険であると専門家は指摘しているからだ。

「そこ(市場)からジンサンシバンムシは、何度も何度も私たちのもとへとやってくるのです」、文書館長代理であるケルスティン・レンガー氏はそう語る。彼女の説明によれば、数百年前の本の表紙は小麦澱粉の覆いでカバーされており、それがジンサンシバンムシを引き付けるとのことだ。

現在、市立文書館の1階に所蔵されているおよそ2、5キロメートルにも及ぶ文書類がジンサンシバンムシの被害にあっている。そのため、1806年以前のすべての文書がクリスマスには窒素室へと移され、そこでおよそ8週間、窒素処理をされる予定である。実際に2013年までに新しい文書館への引っ越しが可能となるかどうか、良く知られている乏しい都市財政のために、アウクスブルクの多くの人は疑念を抱いている。しかし、研究者にとっては、それはどうしても必要なことである。レンガー氏の話では、現在およそ200件の研究計画が進行中であり、およそ50名の研究者たちが古文書を使った研究を行っているということだ。

アウクスブルクddp、2009年12月15日火曜日
*************

記事の中では12月23日からアクセスができなくなるとありますが、これは何かの間違いで、明日はまだ文書館は開いております。でも明日が文書館で研究できるとりあえず最後の日となります。最後の悪あがきをしてこようと思います。がんばろう。
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by schembart | 2009-12-23 04:27 | ニュース | Comments(0)
Bernd Roeck, Elias Holl. Ein Architekt der Renaissance, Regensburg 2004.

本書は、17世紀初頭に活躍したアウクスブルクの建築家エルアス・ホル(1573-1646年)に関する一般書です。アウクスブルクの本屋さんにたくさん並んでいます。著者は、以前に紹介しました『異端、芸術家、そして悪魔たち』と同じベルント・レック教授。ちなみに本書の主人公エリアス・ホルは、同市の有名な金細工師で、自宅で信仰書を読みふけり、異端の容疑で市参事会に捕えられて尋問を受けたダヴィット・アルテンシュテッター(1547-1617年)の一世代後に活躍しています。

なんといってもエリアス・ホルの最高傑作は、これまでも何度も写真でご紹介してきましたアウクスブルクの市庁舎(Rathaus)です。こちら、やこちらの真ん中の写真。あるいはこちらの最後の写真などが綺麗です。ルネサンス様式建築の最高峰と称されております。黄金の間(der Goldene Saal)がとくに有名です(大きな声では言えませんが、実はぼくはまだ観たことがありません…、お恥ずかしい。いつかかならず…)。

エリアス・ホルの業績は、それだけはありません。彼は、市庁舎のような記念碑的な建築に並んで、教会や塔、防御施設や聖霊院など、およそ100件以上の都市建築に携わっています。この時代のアウクスブルクにおける都市建築を、レックは「危機に対する建築術(Baukunst gegen die Krise)」と名づけています。そして、本書の「はじめに」で、次のようにも語っています(『エリアス・ホル』7頁)。

***********
「ホルの時代」における市庁舎建築やその他の建築政策は、ただ帝国都市の自己認識の表れであっただけではない。この建築プログラムは、まさに現前する危機の時代のなかで展開したのである。すなわち、この都市建築プログラムは、一種の社会政策でもあったことがわかっている。このような建築プロジェクトは、仕事のない手工業者や日雇人たちに対して大きな雇用を提供したに違いないのである。
***********

おもしろいですね。ベーリンガーの「危機研究の十戒」やクラーゼン「16世紀の貧民救済
とも関わってくる重要な指摘だと思います。ちなみに、ぼくも翻訳に携わらせてもらった以下の文献のなかで、ゲルハルト・フーケ教授も同様の指摘を加えています。もし関心のある方がいらっしゃいましたら、ぜひご参照ください。

ゲルハルト・フーケ(佐久間弘展、菊池雄太、渡邉裕一共訳)「中世後期から近世にかけての都市建築と都市像」『比較都市史研究』25-2、2006年12月、35-55頁

エリアス・ホルに関しては多くの研究蓄積がありますが、まずはじめに手に取るのものとしては本書が最適であるように思います。写真もたくさんあって、眺めているだけでも楽しめます。
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by schembart | 2009-12-22 00:03 | 文献紹介 | Comments(0)

南ドイツの冬

今日は寮の友人に誘われてミュンヘンのクリスマス市まで行ってきました。

ミュンヘンはさすが大都市で、アウクスブルクのこじんまりとしたクリスマス市と比べると、それはもう規模も大きくて、街中のあらゆるところで市が展開されております。しかも、やはりミュンヘンはひとが多かった。クリスマス休暇前の土曜日で、街はとってもにぎわっていました。寒い寒いと震えながらも、ミュンヘンのクリスマス市を存分に楽しんで来ることができました。

それにしても、今日はほんとうに寒かった。天気予報では、最高気温が-6度で、最低気温が-15度となっております。それでも午前中は太陽も顔を出していてそれほどでもなかったのですが、午後からは雪も降ってきてどんどん冷え込んでいきました。身体の芯が冷えていく様子が手に取るように分かります。ドイツの冬です。でも、予報では明日以降はまた少し持ち直すようです。よかった。

街中のクリスマス市をうろうろして、昼食を食べて(日本食レストランで山菜そばを食べてきました)、午後からは夏にオクトーバー・フェストが開かれたあの大きな会場まで行ってきました。テントの中では、雰囲気のあるオリエンタル風でエキゾチックなお店がたくさん並んでいました。こちらもうろうろと見て回ってきました。

寒さのせいか、とっても綺麗な街並みだったのに、写真を撮るのも忘れていました。まったくもって味気ない写真しかありませんが、せっかくなので挙げておこうと思います。夏のオクトーバー・フェストのときの写真と見比べると、なかなか味わい深いものがあります。まだあれから3ヶ月しかたってないのに…。

市庁舎前のクリスマス・ツリー。
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オクトーバーフェストが行われていた会場、ここでもたくさんのクリスマス市のお店がでています。
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by schembart | 2009-12-20 02:58 | 留学生活 | Comments(0)
Stetten, Paul von [der Ältere]: Geschichte Der Heil. Roem. Reichs Freyen Stadt Augspurg, 2 Bde., Franckfurt/Leipzig, 1743/1758.

今から250年も前に刊行された『神聖ローマ帝国自由都市アウクスブルクの歴史』(全二巻)は、都市アウクスブルクの歴史を豊富な史料に即して網羅的に叙述した記念碑的な作品です。第1巻は、都市の誕生から1628年までを、第2巻は1628年から1648年までの都市アウクスブルクの歴史を叙述しております。第1巻は本文だけで884頁、第2巻は1204頁にも及ぶ、まさに大作です。

老パウル・フォン・シュテッテン(1705-1786)は、アウクスブルクの由緒ある都市貴族家門シュテッテン家の出身で、食糧管理局長(Proviantmeister)として都市行政に関わり、1755年には矯正院(Zucht- und Arbeitshaus)の創設にも関わっております。その傍ら、彼は豊富な史料に基づいた網羅的な都市の歴史叙述に取り組みました。その成果が上記の作品です。

本書は、現在では失われてしまった史料をも駆使しており、後世の歴史家にとっても重要な作品であり続けています。しかも参照した史料への注記や巻末の索引も非常に詳細で、そういった意味でも信頼できる文献として高く評価されています。

もちろん、18世紀を対象とした研究者にとっては、本書は第一級の一次史料でもあります。とくに興味深いのはその「まえがき」で、そこでシュテッテンは、隣の「バイエルン・ナチオーン(Bayrische Nation)」と比べると、「シュヴァーベン・ナチオーン(Schwäbische Nation)」についてはその歴史が描かれたことはなく、それは恥ずかしいことであるだろうと述べています。

「この欠陥を取り除くためには、そのための能力を持った私のような者が手を貸してあげることが望まれているのだろう。これまでその見込みは芳しくないものだったが、それにもかかわらず、私はあえて、我が祖国の歴史をその原初の起源から最新の時代に至るまで年代順に描いてみたのである。(Diesem Mangel abzuhelffen, wollte zwar gewunschet haben, daß geschicktere Leute, als ich, Hand angelegt hätten. Weilen aber hiezu noch bishero sich schlechte Hoffnung gezeiget, habe ich mich gleichwolen gewaget, die Geschichte meines Vatterlands, und zwar von desselben uralten Ursprung bis auf die neuere Zeiten nach der Zeit=Rechnung zu beschreiben.)」(Ebd., Bd. 1, S. a 2)

「我が祖国の歴史(die Geschichte meines Vatterlands)」は、シュテッテンにとっては、まさしく都市アウクスブルクの歴史を意味していたのですね。18世紀の都市エリートの自己認識がよく現れ出ているように思います。中世後期の「都市年代記」との違いなど、ぼくにとっても興味深い素材ではあるのですが、その問題を詳細に論じるためには博士論文を別に用意する必要がでてくるでしょう。ですので、まだまだかじり読みを進めるにとどまっております。
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by schembart | 2009-12-19 00:42 | 文献紹介 | Comments(0)

文書館のこと

アウクスブルク市立文書館に通う日々が続いています。

これまでも何度も触れてきましたが、文書の害虫被害文書館移転にむけての史料の一時的な疎開のため、1月からは史料へのアクセスができなくなってしまいます。24日からはクリスマス休暇なので、実際に文書館で研究できるのも、残すところあと一週間となってしまいました。

10月から3ヶ月間、開館日には毎日文書館に通った甲斐もあって、ずいぶんとたくさん史料を読むことができました。参照すべき史料も、思った以上に残されていることがわかりました。ですので、まだまだ読むべき史料はたくさん残っているものの、仕方がありません、一旦はおあずけです。

市立文書館では、閲覧室(Lesesaal)がひとつあり、利用者はそこで文書館員に史料を注文します。アウクスブルクの中近世の史料は、参事会議事録などの最重要なものしかマイクロフィルム化されておらず(ケルンの歴史文書館では、中近世の史料は8割方がマイクロフィルム化されているようです。アウクスブルクは、ずいぶんと遅れています)、ほとんどのものは現物がどさっと現れます。本のかたちに綴じられているものもあれば、中くらいの段ボール箱(Karton)に数百枚の史料がそのまま入って出てくるものもあります。

ただこの閲覧室、15人ほどで満杯となってしまいます。満杯になると、入口に「今日は満杯となりました。ですので閉館します」という張り紙が張り出されます。このごろは、上のような理由のため、10時ころには満室となっています。開館は8時なのですが、9時にはもう座り場所を探すのに苦労することとなります。パソコンの電源の場所が足りなかったりします…。ずいぶんと前から移転計画が練られているのもうなずけます。

さて今日は、なんとぼくの指導教授であるキースリング先生も文書館にいらっしゃって、どぎまぎしてしまいました。お忙しい先生なのでこのごろは見かけなかったのですが、お時間のあるときには今でも文書館で研究をされておられます。ぼくは奥の方に座っていたので、遠くから会釈をしただけでしたが、なんだかやはり緊張してしまいます。もしかしたら明日もいらっしゃるかもしれません。もし席がお隣なんかになってしまったら、もうドキドキして研究どころでありません。気分は恋する乙女です。またいつものあの名言を思い出してしまいました。「師を見るな、師の見ているものを見よ」。そう自分に言い聞かせるものの、やっぱり史料をじっくりと見入っている先生の後ろ姿が気になってしまいます。本当に格好良いのです、先生の後ろ姿。

なんのかんのいって、文書館での仕事ができるのも残すところあと一週間。
頑張らないといけません。

気がつけばまた、文字ばかりの味気ない日記が続いています。久しぶりに写真を載せたいものの、相変わらずアウクスブルクのクリスマス市の写真しかありません…。
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by schembart | 2009-12-16 03:34 | 研究 | Comments(2)

「危機研究の十戒」

Wolfgang Behringer, Die Krise von 1570. Ein Beitrag zur Krisengeschichte der Neuzeit, in: Manfred Jakubowski-Tiessen/Hartmut Lehmann (hrsg.), Um Himmels Willen. Religion in Katastrophenzeiten, Göttingen 2003, S. 51-156.

ヴォルフガング・ベーリンガー「1570年の危機:近代の危機をめぐる歴史学へのひとつの寄与」

以前に紹介しました災害史研究の論文集『天の采配により』に収録されたベーリンガー先生の論文を読みました。100頁にもわたるこの論文の全容をここで紹介することはできませんが、「近代の危機をめぐる歴史学への寄与」として、ベーリンガー先生が本論文の最後に掲げた10の提言「危機研究の十戒(Zehn Gebote der Krisenforschung)」だけはぜひ紹介したいと思い、以下に拙訳にてお届けいたします。

**********************
(前略)
この分野におけるさしあたりの研究綱領(Forschungsprogramm)を定式化せよとひとが求めるならば、およそ以下のような「危機研究の十戒」を提示することができる:

1. 諸危機は、それぞれ個別的な出来事として主題化されなくてはならない。すべての危機は、それ自体として個別研究を行う価値を有する。より正確に言えば、重要なのは地域に根差した多くの個別研究であり、その基礎があってはじめて、その影響の深さについて発言をすることが可能となる。

2. 危機の時代に書かれた、あるいは公刊されたすべてのテクストは、それがいかなる分野(信仰、政治、農業、経済、医学、技術)に関わっていようとも、危機という分脈〔コンテクスト〕のなかに置かれ、関連付けられなくてはならない。

3. そのためには、大変に苦労の多い仕事が行われなくてはならない。すなわち、例えば日記や手紙、年代記、(法的、医学的、経済的、神学的な)意見書、説教、それに教皇特使の報告書まで、あるいはまた参事会議事録や租税台帳、教区簿、刑罰記録、犯罪調書などといった一連の記録簿にいたるまで、同時代に書かれたあらゆる史料群の体系的な分析・評価という仕事がそれである。

4. 史料の評価にさいしては、可能な限りさまざまな視角を考慮する必要がある。すなわち、経済システム、国家、貴族、商人、アカデミカー、手工業者、日雇人、農民、下男、下女、子供等々、それぞれにとって危機がもった意味を問題としなくてはならない。マクロヒストリーとミクロヒストリーは、等しく研究の正当性を持つ。

5. さらに、危機が重要な影響を及ぼした諸テーマについて、その真意が測られるべきである。農業史、医療史、人口歴史学などのすでにその重要性が認められている諸分野とならんで、以下の点もはっきりと問題として浮上してきたように思われる。すなわち、甚大な危機は、これまでさほど注目されてこなかった諸分野、例えば立法行為や建築活動、書物の刊行、衣服のモード、音楽や芸術市場といった分野にいたるまで、その波及効果を及ぼしたのである。そのリストはさらに長くなるだろう。また、生態学や心理学といった意味深い研究分野は、まだまだ歴史家にとっては未踏の地(terrae incognita)である。

6. このように多くの研究分野に対して開かれることにより、当然それぞれの専門領域における論争に対する十分な配慮がどうしても必要となってくる。例えば、「熱病(Fieber)」と記録されたかつての「新しい病気(neuen Krankheiten)」すべてについての医学上の論争―そしてその論争が危機を経ることで様相を変えたのか、いかに互いに影響を及ぼしたのか、あるいは新たな論争が発生したのかどうかといった一連の問い―に対して、十分に考慮をめぐらさなくてはならない。

7. ある特定の危機が同時代の経済、社会構造、心性、政治その他に及ぼした痕跡を鋭く自覚的に意識することではじめて、より中期・長期的な動向におけるその危機の意味を探ることが可能となる。そして、より長期にわたる危機の時代を通じて、どの危機が、いかなる影響を、何に対して示したか、そしてその理由は何であったか、といった問いを発することがようやく可能となる。

8. さらに、比較史的な視点がより強く意識されなくてはならない。あまりにも多くの研究が、ある地域に特有な個別事例を一般化してしまうという病にかかっている。それは許容されるべきではない。1315年から1321年にかけての「大飢饉(große Hunger)」や、1675-1715年の「マウンダー極小期(Maunder-Minimums)」、あるいは1740年の「極寒の冬(strenge Winter)」といった危機が至る所で同様の影響を及ぼしたなどという議論を、どうして受け入れることができるだろうか。これについては、ただ個々の危機の地理上の広がりをしっかりと把握するだけではなく、ヨーロッパ内におけるその影響関係を比較する視点が必要となる。

9. さらに望ましいのは、地球規模の比較史的な視点に立った歴史学的な危機研究が行われることだろう。というのも、「17世紀の危機(Krise des 17. Jahrhunderts)」や1816/17年のタンボラ危機〔インドネシアの活火山、1815年に大噴火〕の影響をめぐっては、その地域的な意味と並んで、世界規模での意味もまた重要であると議論されているからだ。例えば、さまざまに異なる社会システムや文化をもった諸集団が近代以前の食糧危機をいかに乗り切ったのかといった問題を扱うためには、国際的な共同研究の可能性が論じられなくてはいけないだろう。

10. 最後に、諸危機の波及効果の力、あるいは危機の結果の周期的反復、また諸危機のさまざまな地域における諸影響が、いわゆる「大きな構想(großen Konzept)」―歴史家が陰に陽にそれと向き合わざるを得ない、例えば、近代化や社会的規律化、文明化、宗派化、国家形成といった諸問題―に対してどれほどの効果を持っていたかが論じられなくていけない。

(Ebd. S. 153-155.より引用)
********************

こうして研究の問題点と方向性を明確に示すというのは、ものすごく大変なことなのですが、やっぱり重要なことですね。ベーリンガー先生が立派な歴史家として高く評価されている理由がよくわかります。

(2013年1月9日:改訂)
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by schembart | 2009-12-14 05:42 | 文献紹介 | Comments(0)