中近世ドイツ都市史を研究する渡邉さんの日々 2009年夏からドイツに留学中(2013年9月に帰国しました)


by schembart

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ウチダ先生の新刊

内田樹『日本辺境論』新潮新書、2009年
内田樹『邪悪なものの鎮め方』バジリコ、2010年

ウチダ先生の新刊を読みました。大学院に入って本屋さんでアルバイトを始めたころ、ウチダ先生の『ためらいの倫理学』(角川文庫)を読んでからというもの、あれまあれまとウチダ先生のファンになりました。ほぼすべての著書を読んだと思います。2ヶ月に1冊という化け物のようなペースで新刊を出されていた時期がありましたが、その時だって本屋さんの店頭に並ぶと同時に購入しては読んでおりました。ずいぶんと熱心な読者のひとりだったのです。

ウチダ先生は同じことを何度も何度も少しずつ言葉を変えながら繰り返して書かれているので、新刊を読んだといっても、なにか新しい発見があるわけではありません。とくに『邪悪なものの鎮め方』のようなブログをもとにした本は、一字一字を読まなくても、ページを開いた瞬間でだいたい何が書かれているのか分かるほどになっています。ちょうど『邪悪なものの…』の第一章「物語のほうへ」でウチダ先生自身が書かれているように。

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 すでに知っていることを、もう一度「知らないふりをして」繰り返す。そこには当然ながら「既視感」と、「私はこれから起こることも全部知っているのだ(みんな知らないけどさ)」という「全能感」が発生する。
 この何とも言えない「既視感」と「全能感」こそ、読書が私たちに与える愉悦の本質ではないのであろうか。
 というのも、「既視感」というのは、つねづね申し上げているとおり「宿命性」の印だからである。
 私たちが宿命的な恋に落ちるのは、「私はかつてこの人のかたわらで長く親密な時間を過ごしたことがある」という「既視感」にとらえられたからである。その消息は村上春樹の『四月のある晴れた朝に100パーセントの女の子と出会うことについて』に詳しいから、興味がある方はそちらを徴されよ。
 恋と同じように、既視感をもって本を読むとき、私たちは「私はまさにいまこのときに、この本を読むことを遠い昔から宿命づけられていた」という感覚にとらわれる。
 それこそは至福の読書体験である。

内田樹「「読字」の時間の必要」『邪悪なものの鎮め方』64-65頁
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『ためらいの倫理学』を読んだ時のあの新鮮な驚きや『先生はえらい』(ちくまプリマー新書)の疾走感、あるいは『私家版・ユダヤ文化論』(文春文庫)で展開されたアクロバティックであると同時に抑制のきいた深みある考察などと比べてると、たしかにこのごろのウチダ先生の著書には「なにか物足りない」ような気持もしてしまいます。普通に考えれば書き過ぎなのでしょうし、きっと学内のお仕事もたいへんお忙しいのでしょう。もっともっと先生の著作を読みたいと言っていたのはぼくのようなファンなので勝手な言い分ではあるのですが、これからはもっとのんびりと書き続けていってもらいたいなぁ、なんて思ったりもします。ちょうどぼくは留学中ですので…(これこそ勝手な言い分ですみません)。

そんなこと考えていたら、またまた新刊が出るみたいです。ああ、買わなくては…。

内田樹/釈徹宗『現代霊性論』講談社、2010年2月23日発売
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by schembart | 2010-02-19 13:02 | 読書 | Comments(0)

『此処彼処』

川上弘美『此処彼処』新潮文庫、2009年

お気に入りの小説家さんが書いたエッセイ集を読むのは、なんとも心躍る贅沢な時間の使い道のひとつです。連載中のエッセイを毎週楽しみにするというのではなく、ぼくの場合は、まとめて読むのが好きなので、一冊の本として刊行されるのを待つことになります。できることならば、文庫化されるまで。

ぼくのお気に入りが偏っているということもあるのでしょうが、このところは大好きな小説家さんの最新エッセイ集を読むという贅沢をする機会もずいぶんと少なくなってしまいました。ぼくの大好きな村上春樹さんの「村上朝日堂」シリーズも全部読んでしまったし、宮本輝さんはずいぶんと前にエッセイを書くこと自体をやめてしまいました。もちろん、おふたりとも本業である小説を書くことに全力をぶつけていらっしゃるので、贅沢は言えません。

そんななか、ちょうどよいペースで新刊のエッセイ集を刊行してくれる川上さんは、ぼくにとってなんとも嬉しい存在なのです。(確認はしておりませんが)川上さんはいまもどこかの新聞や雑誌でエッセイを連載されていることと思います。新刊エッセイ集の刊行を待ち焦がれるあの気持ちを味わえるのもまた、川上さんのおかげなのです。

文庫版あとがきによりますと、『此処彼処』のエッセイは2004年の1月から12月まで、日本経済新聞の日曜日の紙面に毎週連載されたものであるようです。テーマは、「川上さんの属していた場所」についてのあれこれです。新聞に連載されていたといっても、時事的なテーマはほとんど扱われていないので、古びれることを知りません。

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 この世界の此処彼処に、自分に属すると決めたこういう場所がある。固定資産税もかからないかわりに、知らぬ間に消えていたり変貌をとげていたりもする。昨日見つけたばかりのところもあれば、長く見知っているところもある。そんな場所について、書いていこうと思う。

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川上さんの文章が、ぼくはとても好きなのです。書いたものすべてを読みたいと思う数少ない小説家さんのひとりで、こんな文章が書けたらいいなと常々思っております。べたべたしていなくて、それでいて決して軽々しくない。淡々としているようで、ある時にはびっくりするほどどきりとさせられてしまいます。引用してみたくなるような文章でいっぱいです。そうだ、引用をしてみましょう。

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 東京も桜が咲きはじめた。
 学校に咲く桜が、好きだ。通りがかりの知らない小学校で桜が満開になっていたりすると、ついじいっと見入ってしまう。
 学校の桜は、なぜだか公園や人家の桜よりも白っぽいような気がする。春休みの、門の閉じられた校庭に、薄く花屑が散っているのを見たりすると、もういけない。郷愁、みたいなものがぐっと胸にせまってきて、意味もなく涙ぐみそうになる。老化現象だよ君、と自分を揶揄しながら、早足で歩きだす。どこかで犬がわんと吠える。振り返ると、桜はこちらの意向とはまるで関係なく、ただはらはらと散りつづけるばかりだ。

川上弘美「駒場」『此処彼処』所収
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「そういえば…」とエッセイは続いていきます。こうやって好きな人の文章をなぞるのは、なんとも楽しい仕業ですね。川上さん、これからも素敵な小説にエッセイと、楽しみにしております。
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by schembart | 2010-02-12 15:35 | 読書 | Comments(0)
内田日出海『物語 ストラスブールの歴史:国家の辺境、ヨーロッパの中核』中公新書、2009年

中公新書の『物語 ~の歴史』シリーズの一冊です。著者はストラスブール大学で博士号を取得され、現在は成蹊大学経済学部教授の内田日出海氏。

フランス、アルザス地域圏の主要都市ストラスブール(Strasbourg)を舞台に展開する歴史物語。中近世ドイツ史を専門とするぼくには、ストラスブールではなくてシュトラースブルク(Straßburg)と言われたほうがピンときますが、これはぼくの感じ方のほうが少しズレているのだと思います。

ドイツとフランスの合間に位置するストラスブールの歴史は、それこそドイツとフランスの間で行ったり来たりを繰り返す怒涛の展開をみせてくれます。ただ本書は、フランスやドイツといった国家の視点から、国家の辺境としての都市ストラスブールの歴史を描き上げることだけを意図したものではありません。むしろ、都市に視点を合わせることで、フランスおよびドイツで形成されていく近代国家というもののありようを適度な距離をもって観察することができるというもの。その距離の取り方が絶妙で、まるで形成されゆく近代国家の裏側をこっそりと眺めているような気分にさせてくれます。

しかも1000年を超える長期的な視点をもってすれば、「ヨーロッパの中核」としての都市ストラスブールの姿が浮かび上がってくる、とのこと。以下が目次です(節の題目は省略)。


プロローグ
第一話 都市の起こり―ケルト人のまちから「シュトラースブルク」へ
第二話 ドイツ的自由のなかの都市共和国―司教都市から神聖ローマ帝国自由都市へ(982~1681年)
第三話 フランス的趣味・ドイツ的流儀―フランス王国自由都市の時代(1681~1789年)
第四話 フランス国家のふところ―「アリアンヌ」とナポレオンの時代(1789~1871年)
第五話 ドイツ「占領」と自治(喪失と再生)―「ライヒスラント」首都の時代(1871~1918年)
第六話 揺れ動く魂―再フランス化と再々ドイツ化(1918~45年)
第七話 ドイツからの解放、ヨーロッパへの開放―再々フランス化の時代(1945年~)


どれも読み応えのある章ばかりです。ぼく自身としては、やっぱり第二話の中世から近世にかけてのシュトラースブルクを描いた部分がいちばん関心のあるところ。もっと突っ込んで知りたいこともたくさんあるのですが、新書ですのでその点は仕方がありません。

近世以降に関しては、まったくもって知らないことばかりで、いちいち勉強になりました。たとえば、啓蒙についてのふたつの考え方と知的態度―フランスの啓蒙思想(リユミエール)とドイツの啓蒙主義(アウフクレールング)―がストラスブールでぶつかるという指摘など。この点はもっと深く知りたいものです。パリやベルリンだけを見ていてもわかりません。ドイツによる占領、再フランス化、再々ドイツ化、再々フランス化を経て、現在のヨーロッパの中核都市へと至る近現代史の怒涛の展開もとても勉強になりました。

ライン河沿いの都市には、ぼくはケルンとボンしか行ったことないのですが(あ、あとコンスタンツも!)、ぜひストラスブールも訪ねてみたくなりました。フランス語は話せないのですが…。いろいろな方にお話を窺うと、フランスともドイツとも一概には言えないアルザス独特の雰囲気を持った素敵な都市であるみたいです。
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by schembart | 2010-02-10 11:24 | 文献紹介 | Comments(0)
村上春樹『ねじまき鳥クロニクル 第1部 泥棒かささぎ編』新潮文庫(初版:1994年刊)
村上春樹『ねじまき鳥クロニクル 第2部 予言する鳥編』新潮文庫(初版:1994年刊)
村上春樹『ねじまき鳥クロニクル 第3部 鳥刺し男編』新潮文庫(初版:1995年刊)

数ある村上作品のなかでもぼくがもっとも好きな長編です。そして数ある村上作品のなかでもっとも長い物語でもあります。『第3部 鳥刺し編』だけは、のちほど書き足されて1年後に刊行されたという経緯があるのですが、ぼくがはじめて『ねじまき鳥クロニクル』を手にした頃にはすでに文庫版も出版されていたので、もとから3部構成の物語としてなんの抵抗もなく読み進めた記憶があります。

『ねじまき鳥クロニクル』を最初に読んだのは、たしかぼくが大学生の1年か2年生の頃でした。ずいぶんと昔のことのようにも思いますが、いくつかの場面はその後もたしかな手応えをもってぼくのなかにしっかりとその足跡を残しております。色あせることのない記念写真みたいに。笠原メイのサングラス姿とか井戸のなかの暗闇、それにノモンハンの皮剝ぎなんかです。

ちょっとまとまった時間ができたので、久方ぶりに手に取ってみました。

相変わらず謎だらけの小説です。はじめてこの長編を読んだ時、ぼくは何を思ったのだっけ? クミコの失踪は、たしかあのころのぼくにとって、手に負えない程の重大な事件であったように記憶しております。ショックだったなあ。それからぼくは、まだ若かったぼくなりに、この物語の深みまでずぼずぼと入って行こうと試みたのではなかったっけ。まるで「僕」が井戸の底に向かうように。もちろん、枯れた井戸を身の回りに探したりはしなかったのですが。

いまではぼくも主人公の「僕」とそんなにかわらない年齢になっています。だからといって、今回『ねじまき鳥クロニクル』を読み返してみて、なにか新しい発見があったわけではありません。相変わらず謎だらけの小説であり続けています。笠原メイの手紙がとっても素敵であったこと、それが今回読み返してみて改めて強く感じたことであります。

アヒルのヒトたちの話はぼくをなんとも暖かい気持ちにさせました。それはきっと、笠原メイが感じたのと同じような暖かく幸福な気持ちであるように思います。そしてそれは、とても大切なことであるように思うのです。ぼくも氷の上で足がつうーとすべってひょっとコケるアヒルのヒトたちの姿をこの目で眺めてみたいものです。

海辺のカフカ』と同じように、そのままドイツ語版『ねじまき鳥クロニクル』を読みたい気持ちもあるのですが、ちょっぴり躊躇しております。英語版からの重訳ということもあるのですが、なんといってもとっても長い物語ですので。なにはともあれ、30代半ばになったらまた『ねじまき鳥クロニクル』を読み返したいなと思います。そのときにはひっそりと読み進めることになるんじゃないかな、なんて気もしますが、それはそれとして。
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by schembart | 2010-02-06 18:55 | 読書 | Comments(2)