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2017年4月から福岡大学人文学部歴史学科で西洋史を担当してます。


by schembart

ウチダ先生の新刊

内田樹『日本辺境論』新潮新書、2009年
内田樹『邪悪なものの鎮め方』バジリコ、2010年

ウチダ先生の新刊を読みました。大学院に入って本屋さんでアルバイトを始めたころ、ウチダ先生の『ためらいの倫理学』(角川文庫)を読んでからというもの、あれまあれまとウチダ先生のファンになりました。ほぼすべての著書を読んだと思います。2ヶ月に1冊という化け物のようなペースで新刊を出されていた時期がありましたが、その時だって本屋さんの店頭に並ぶと同時に購入しては読んでおりました。ずいぶんと熱心な読者のひとりだったのです。

ウチダ先生は同じことを何度も何度も少しずつ言葉を変えながら繰り返して書かれているので、新刊を読んだといっても、なにか新しい発見があるわけではありません。とくに『邪悪なものの鎮め方』のようなブログをもとにした本は、一字一字を読まなくても、ページを開いた瞬間でだいたい何が書かれているのか分かるほどになっています。ちょうど『邪悪なものの…』の第一章「物語のほうへ」でウチダ先生自身が書かれているように。

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 すでに知っていることを、もう一度「知らないふりをして」繰り返す。そこには当然ながら「既視感」と、「私はこれから起こることも全部知っているのだ(みんな知らないけどさ)」という「全能感」が発生する。
 この何とも言えない「既視感」と「全能感」こそ、読書が私たちに与える愉悦の本質ではないのであろうか。
 というのも、「既視感」というのは、つねづね申し上げているとおり「宿命性」の印だからである。
 私たちが宿命的な恋に落ちるのは、「私はかつてこの人のかたわらで長く親密な時間を過ごしたことがある」という「既視感」にとらえられたからである。その消息は村上春樹の『四月のある晴れた朝に100パーセントの女の子と出会うことについて』に詳しいから、興味がある方はそちらを徴されよ。
 恋と同じように、既視感をもって本を読むとき、私たちは「私はまさにいまこのときに、この本を読むことを遠い昔から宿命づけられていた」という感覚にとらわれる。
 それこそは至福の読書体験である。

内田樹「「読字」の時間の必要」『邪悪なものの鎮め方』64-65頁
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『ためらいの倫理学』を読んだ時のあの新鮮な驚きや『先生はえらい』(ちくまプリマー新書)の疾走感、あるいは『私家版・ユダヤ文化論』(文春文庫)で展開されたアクロバティックであると同時に抑制のきいた深みある考察などと比べてると、たしかにこのごろのウチダ先生の著書には「なにか物足りない」ような気持もしてしまいます。普通に考えれば書き過ぎなのでしょうし、きっと学内のお仕事もたいへんお忙しいのでしょう。もっともっと先生の著作を読みたいと言っていたのはぼくのようなファンなので勝手な言い分ではあるのですが、これからはもっとのんびりと書き続けていってもらいたいなぁ、なんて思ったりもします。ちょうどぼくは留学中ですので…(これこそ勝手な言い分ですみません)。

そんなこと考えていたら、またまた新刊が出るみたいです。ああ、買わなくては…。

内田樹/釈徹宗『現代霊性論』講談社、2010年2月23日発売
by schembart | 2010-02-19 13:02 | 読書