中近世ドイツ都市史を研究する渡邉さんの日々 2009年夏からドイツに留学中(2013年9月に帰国しました)


by schembart

カテゴリ:読書( 26 )

ヨアヒム・ラートカウ(海老根剛・森田直子訳)『自然と権力—環境の世界史』みすず書房、2012年

以前にもご紹介しましたラートカウ氏の主著が日本語に翻訳されてみすず書房から刊行されたので、じっくりと読み進めております。ラートカウ氏の業績は、ぼく自身の研究にとっても重要な位置を占めており、ここ数年、時間をかけて発表してきたいくつかの論文も、ラートカウ氏の業績から論を説き起こしました(こちらこちらこちら)。博士論文の課題設定のさいにも、ラートカウ氏の議論を重要な道しるべとして参考にさせてもらいました(こちら)。そんなラートカウ氏の主著『自然と権力』が日本語で読めるようになったのは、なんともうれしいかぎり。ひとりの歴史家が明確な問題意識を持って書き上げた「環境の世界史」として、本書には重要な示唆がたくさん示されています。

同じみすず書房から2007年に刊行されたドロール/ワルテール『環境の歴史―ヨーロッパ、原初から現代まで』が、残念ながら日本の歴史学界で大きな話題とならなかったのは、原著の内容よりも、翻訳の問題が大きかったからだと思います。それに比べ、今回の『自然と権力』は、翻訳も非常に丁寧で、学術上のみでなく、社会的にも重要な価値を有する本書に相応しい丁寧なお仕事となっています。

原著(初版2000年)には収録されていませんが、日本語版では「日本という選択肢」という日本の環境史を論じた書下ろしの新たな一節、それから「フクシマの事故の後に考えたこと、そしていくつかの個人的告白」と題された「日本語版へのあとがき」も加えられており、日本の読者にも読み応えのあるものになっています。

「日本という選択肢」(『自然と権力』164‐179頁)は、それほど多くない数の英語・ドイツ語・フランス語の研究文献にもとづいた論考となっていますが、それでも非常に示唆深い議論が展開されています。日本の環境史における地理決定論の位置づけや、江戸時代の生態学的再評価、現代林業の内外に対する「二重道徳」の問題。いずれも、ヨーロッパや中国との比較を軸に論を進め、いたるところに興味深い指摘がちりばめられています。近代以前の日本の環境史を論じるさいに、主に農民にのみ焦点があてられるのは、ラートカウ自身の問題よりも、これまでの日本の歴史学や民俗学の重要な業績が横文字では入手困難であることに、より大きな問題があるのだと思います。例えば、菅豊『川は誰のものか―人と環境の民俗学』などは、欧米でも紹介・消化されてしかるべき重要な業績なのだと思います。日本史の分野でも、環境史に関する議論は盛り上がっているようですし。

いくつか、興味深い個所をメモ用として引用しておこう。

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とても逆説的に響くけれども、頻繁に起こった都市火災こそが、日本の林業の強力な推進力になったように思われる。ヨーロッパの古い諸都市も、たいてい、その歴史のなかで大火を経験している。しかしながら、日本の都市の大火はきわめて頻繁かつ規則的だったので、(中略)絶えず建築用木材取引の新たな好景気が保証されたのである。(中略)西洋からの旅行者は、ほとんど規則的に繰り返される都市火災を甘受する際に日本人が示す平静さに驚嘆した。「1600年から1900年のあいだに日本の木造の首都に暮らした人々以上に、火災に脅かされた大都市に生きた人間は誰もいないだろう」(クリストフ・ブルマン)。日本の伝統的な哲学が目指したのは、まさしく火災を防ぐことではなく、素早く解体し新たに建て直せるように家屋を簡素に建てることであった。(172‐173頁)

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1989年、当時長崎市長であった本島等は、「宗教と哲学がヨーロッパで占めてきた位置を、日本で数百年前から自然が占めてきたのだ」と、辛辣なニュアンスを含む口調でドイツ人のインタビュアーに説明した。長崎の小学校では「どの校歌も、校舎の裏手の山やその前を流れる小川、そして、その傍らに立つ桜の木を歌う歌詞で始まる」。しかし、その一方で、「誰が責任者で、誰がある事柄を行ったのか」について語られることはない。政治から注意を逸らすものとしての自然、そして人間性への無関心の隠れ蓑としての自然である。(174頁)

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1970年代と80年代に日本はエコロジーにおける先駆け的な国として国際的名声を博したが、それだけになおさら、環境問題に関して日本の対内道徳と対外道徳とのあいだに鋭い違いのあることが明らかになったとき、外国の失望は大きかった。日本は自国内では持続可能な林業に慎重な注意を払っていたが、東南アジアやインドネシアの森林を搾取した際には―みずからの新たな経済的権力にもとづいて—持続可能性にいかなる配慮も払わなかった。すでに朝鮮支配の時代にも、日本は朝鮮の森林を過剰使用したのだった。(中略)すでに明らかな東南アジアの森林の疲弊、該当する国々の木材輸出禁止措置、そして、国際的木材貿易における木材価格の上昇と持続可能性証明書は、日本の森林の価値をあらためて高めることになるだろう。(178‐179頁)

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「日本語版へのあとがき」では、原子力技術が論点となっています。この点は、おそらく新刊書でより詳細に論じられていることでしょう。これもいつか読んでみよう。

ヨアヒム・ラートカウ(海老根剛・森田直子訳)『ドイツ反原発運動小史―原子力産業・核エネルギー・公共性』みすず書房、2012年

環境史研究における時代区分という問題は、ぼく自身にとっても今後じっくりと取り組む必要がある大きなテーマなのですが、ラートカウ氏は、本書のいたるところで、「これが物語(歴史)の結末ではない」、と述べています。環境史における価値判断の問題は非常に難しく、注意が必要なのですが、それでも、環境史における「日本という選択肢」が、世界のほかの地域にとって意味ある選択肢でありうるかどうか。まさしく現在進行中の原発をめぐる選択が、その重要な試金石となるに違いありません(あれ、先日紹介した赤坂さんの著書の結びの言葉と一緒になってしまいました)。
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by schembart | 2012-12-06 23:15 | 読書
赤坂憲雄『3.11から考える「この国のかたち」―東北学を再建する』新潮選書、2012年

2011年3月11日、ぼくはドイツにいました。その日は午前中から指導教授のキースリング先生、シリング先生との三者面談が予定されていました。朝起きて、日本で大きな地震が起こったとニュースで知り、よくわからないままに、学生寮の部屋を出て、大学に向かった記憶があります。面談も、日本での大地震の話題から始まりました。でも、まだ震災の全容もぼくらはまったくわからなかったので、すぐに話題はぼくの博士論文の具体的な内容へと移っていきました。晩は、日本人の友人とドイツ人の友人宅を訪ねる予定があり、一緒に晩御飯を食べました。ドイツのニュースでも、日本の大地震、そして大津波について、大きく報道されていました。

夜遅くに帰宅してからというもの、ぼくはインターネット上で得られる情報の渦に身をゆだねることになります。三者面談を終え、月末から一時帰国を予定してたぼくは、当面は緊喫の予定もなかったのです。記憶では、TBSとNHKがU-Streamでのニュース報道のネット中継をすぐに開放していたので、数日間はそれもつけっぱなし、ヘッドホンもつけっぱなしでベットとパソコンの前を行き来しておりました。自分が遠い地にいることに、疾しさみたいなものを感じつつ、何度も続く余震や大津波による被害状況、そして原発に関して逐一と移り変わる状況についての情報だけを、ただただ浴び続ける日々でした。外に出るのも、食料品を買いに行くときだけ。数日後には、アウクスブルクでも反原発のデモが行われるようになりました。なんだか身を隠すようにして、学生寮の部屋に走り帰った記憶もあります。

3月後半に予定していた研究会報告も中止となりました。東京もまだまだ騒然としているから一時帰国は見合わせたらどうか、ということも言われたのですが、その時は東京にどうしても会いたかった人がいたし、ドイツにいてもひとりで朝から晩までずっとネットの前で日本からの悲惨なニュースを見続けて、身も心もくたびれるだけだったから、やはり予定通りに日本に帰ることにしました。東京でも、まだまだ余震が続いていました。桜だけは綺麗に咲いていました。3.11から何を考えたらよいのか、ぼく自身はまだまだわからずにいます。

***

これまで、地域学としての東北学ということをずっと語ってこられた民俗学者の赤坂憲雄さんは、本書で、みずからの東北学の第2章への道をスタートさせています。震災を受け止め、復興を引き受ける。赤坂さんのお仕事は、まさにそういうものだと思います。以下に、本書の最後の個所を引用させてもらいます。ご関心のある方は、鷲田清一さんとの対談『東北の震災と想像力 われわれは何を負わされたのか』(講談社、2012年)ともども、ぜひ読んでみてください。

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東日本大震災の被災地には、この入会地の思想が再構築のうえで導入されるべきだ、と考えてきた。山野河海という巨大な自然の領域を分割し、個人の所有に帰してきた近代の開発の論理が、限界をさらしているのではないか。いまはまだ、夢想のかけらに留まるが、五十年後の未来に避けがたくやって来る八千万人の日本列島にとっては、それこそがリアルなシナリオとして認知される日が訪れてほしい。海岸線をめぐって、わたしたちはいやおうもなく、人と自然との境界領域を根底から再編することを求められている。役に立たぬ巨大な堤防を造り、耕す人のいない水田地帯を復元している余裕など、この国にはすでにない。目先の利益を追う者たちに、「この国のかたち」の将来デザインを委ねることはできない。原発をめぐる選択は、その試金石となるにちがいない。(本書、197頁)
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ちなみに、赤坂さんも参加されたシンポジウムは、こちら
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by schembart | 2012-12-03 07:31 | 読書
日本に帰ると、いつもだいたい本屋さんに通います。大きな書店さんにも行くし、地元の小さな本屋さんにも行きます。時間があれば、ただただ本屋さんに居座ります。大好きな作家の新刊が出ていないかをチェックし、歴史書の棚を隅から隅へと眺め、店頭の平積みに誰の本が積まれているのかを確かめます。ドイツに持ち帰るには荷物になるだろうなという気持ちと、それでも読みたいという願望とのあいだで、気になる本を手に取りながら、もんもんと本屋さんを行ったり来たりします。

今回の帰国では、震災関連の本をなにか買おうと決めておりました。思った通りに、書店には震災関連のコーナーが作られており、原発事故関連を中心に、多くの新刊書が並んでいます。さて、どれにしようか? 原子力や放射線の専門家の書籍は、それはそれで勉強にはなるだろうけど、今回ぼくが読みたいと強く願っている本は、そういう「科学者の話」ではありません。あるいは、「ジャーナリストの叫び」でもない。歴史を学ぶ人間として、歴史家が書いた文章もいくつか読んだけども(例えば、「緊急特集 東日本大震災・原発事故と歴史学」『歴史学研究』884号、2011年には、非常に示唆深い論考が並び、刺激を受けました)、いまのぼくが求めている言葉とはちょっと違う。

今ぼくが読みたい、そして、読む必要があると強く感じているのは、なによりも、震災をめぐる「詩人の言葉」でした。震災と原発事故をめぐっては、これから長い時間をかけてじっくりと深く考えていかないといけないと思うから、そんなときにすぐに手に取れるように、すぐ隣に置いておける、自分の腕のなかでしっかりと抱えておける、そんな種類の本を求めていたのです。

本屋さんでまず手に取ったのが、川上弘美さんの『神さま2011』(講談社)。これは、元の短編集『神様』がぼくにとってあまりにも愛おしい作品だったから、そっと本棚に戻しました。いつかもっと心が落ち着いたら、きっと読もうと思います。

こんなことを書きつつも、実を言いますと、帰国前から、「これだ」と心に決めていた作品があったのです。池澤夏樹さんの『スティル・ライフ』や『マシアス・ギリの失脚』、『静かな大地』は、どれも大好きな小説。『きみが住む星』という小さいながらに(ぼくにとって)大切な本も書かれています。ぼくが個人的に強く信頼するそんな池澤さんが、震災をめぐって何を、どうやって語っているのか、その言葉に耳を傾けようと決めていたのです。

池澤夏樹、写真・鷲尾和彦『春を恨んだりはしない―震災をめぐって考えたこと』中央公論新社

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目次

1.まえがき、あるいは死者たち
2.春を恨んだりはしない
3.あの日、あの後の日々
4.被災地の静寂
5.国土としての日本列島
6.避難所の前で
7.昔、原発というものがあった
8.政治に何ができるのか
9.ヴォルテールの困惑

書き終えて

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批評めいたことは書きたくありませんが、いまぼくが読みたかった、読む必要があったのは、まさにこういう本だったように思います。大きな本屋さんには平積みになっていると思います。ぼくの地元の本屋さんには置いてなかったから、田舎の本屋さんだと、注文しなくちゃ駄目かもしれません。気になった方は、ぜひ手にとってみてください。そんな頁数も多くありませんし、そんなに高くはありません。でも、ぼくにとっては、とても大切な本となりました。
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by schembart | 2011-10-15 07:54 | 読書

おおきなかぶ、その他

読書日記。

村上春樹、画・大橋歩『おおきなかぶ、むずかしいアボカド。村上ラヂオ2』マガジンハウス、2011年

ずいぶんと前から楽しみにしていた『村上ラヂオ2』。10年ぶりのカムバック! まさに待望のエッセイ集。大橋さんの挿絵がまたたまりません。読んでいて嬉しくなるエッセイが満載です。

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でも、世界中のあらゆる神様の前で正々堂々と宣誓してもいいけど、ビールは缶で飲むより、瓶で飲んだ方がはるかにおいしいです。(村上春樹「携帯電話とか、栓抜きとか」『おおきなかぶ、むずかしアボカド』140頁)

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ほんとうにそうですね。ビールは缶で飲むよりも、瓶で飲む方がはるかに美味しいです。ドイツは瓶ビールが主流なので、その点はほんとうに素晴らしい。でも、このまえ中学時代の友人と焼き肉したときは、日本の缶ビールだったけど、それはそれでとっても美味しかったな。


内田樹『最終講義―生き延びるための六講』技術評論社、2011年

神戸女子大学での最終講義を含む、内田センセイの講演録。以前に紹介しました大谷大学2010年度開学記念式典講演「ミッションスクールのミッション」も収録されています。動画と読み比べると面白いかもしれませんね。いずれにせよ、自分が知らないうちに「ビジネス用語」で何かを説明しはじめたら気をつけなくちゃならない、ということは胸に命じておかないといけません。


磯田道史『武士の家計簿―「加賀藩御算用者」の幕末維新』新潮新書、2003年

(ずいぶんと前ですが)話題の新書。面白かったです。映画化もされているようで、調子に乗ってDVDも購入してしまいました。「家計簿」という史料から、こんなに心躍る歴史叙述ができるのですね。ぼくがいま読み進めている「森林書記の会計簿」も、こういった具合に読み込んでいけばよいのかな、とちょっとだけ勇気をもらいました。今後の研究の励みにもなる、良い読書体験となりました。映画はまだ見てないけど、ドイツに戻ったらのんびり鑑賞しようと思います。
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by schembart | 2011-10-05 10:55 | 読書
Michel de Montaigne, Bodensee - Allgäu - Augsburg. Aus dem süddeutschen Reisetagebüchern, Übersetzung von Max Stadler, Augsburg 2010.
ミシェル・ド・モンテーニュ『ボーデン湖―アルゴイ―アウクスブルク:南ドイツ旅日記から』

暇を見つけては、フランスの有名な哲学者ミシェル・ド・モンテーニュ(1533-1592年)が綴った南ドイツ旅日記(1580/81年)をぱらぱらと読み進めております。ボーデン湖からアウクスブルクまでの部分だけを抜粋して、しかも現代ドイツ語訳してくれたのが、本書になります。探せばおそらく日本語訳でも見つけることができると思いますが、もし書誌情報ご存知の方いましたら、ぜひお教えいただければ幸いです。

さて、モンテーニュの旅日記。本書で登場する南ドイツの町は、シャフハウゼン(Schaffhausen)、コンスタンツ(Konstanz)、マルクドルフ(Markdorf)、リンダウ(Lindau)、ヴァンゲン(Wangen)、イズニー(Isny)、ケンプテン(Kempten)、プフロンテン(Pfronten)、フュッセン(Füssen)、ランツベルク(Landsberg)、そしてアウクスブルク(Augsburg)。タイトルにあるように、ボーデン湖からアルゴイ地方へ、そしてフュッセンからレヒ川を筏に乗ってアウクスブルクまでの旅路となります。以前にご紹介した、アレクサンダー・ベルナーの救貧制度調査旅行(1531年)の旅路とも、似たようなところがあって、面白いですね。

モンテーニュの関心は多岐にわたっています。なかでも、とくに彼の注目を引いたのは、16世紀後半、「宗派の時代」だけあって、それぞれの町の教会やその宗派、信仰のあり方についてです。この町はカトリックの信仰を固く守っているだとか、プロテスタントの勢力が強いだとか、なんとかかんとか。訪れる町々で、当地の学識者(多くは聖職者や牧師さん)に会っては、その町の信仰についてあれやこれやと語り合うのが、モンテーニュの旅の日課であったようです。例えば、両宗派が法的にも認められていたアウクスブルクでは、毎日のようにカトリックとプロテスタントの間で結婚がなされている、と驚きを持って記しております。彼の泊まる宿屋の大将と女将が、まさに異宗派間結婚だったようです。

地球の歩き方を片手に南ドイツを回るのももちろん楽しいものですが、モンテーニュの旅日記を片手に、ボーデン湖からフュッセンへ、そこからアウクスブルクまで旅するのも、なかなか素敵な旅路になるかもしれません。そこからロマンティック街道を北上すれば良いのです。時間とお金に余裕のある方は、ぜひ試してみてくださいな。何と言っても、夏のボーデン湖は、おすすめスポットです。
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by schembart | 2011-08-12 20:53 | 読書
Ulrich Grober, Die Entdeckung der Nachhaltigkeit. Kulturgeschichte eines Begriffs, Kunstmann; München 2010.
ウルリッヒ・グローバー『持続性の発見:ある概念の文化史』

ドイツでもけっこう話題となっている本書ですが、ぼくも書店で見つけてさっそく購入しました。論文や研究書以外で、まとまったドイツ語を読むのは久しぶり。ドイツ語って、思ったよりも、なかなか表現豊かな言葉なのだなぁ、ってそんなことを思いながら読み進めております。

巷でよく耳にする「持続性(Nachhaltigkeit)」という概念の歴史をめぐる本書は、前にこちらで紹介したシュトューバー『数世代にわたる森林』のような本格的な歴史研究ではありませんが、今日の「持続性」概念に通じるさまざま過去の思想を、ジャーナリストであるウルリッヒ・グローバー氏の味のある文章とともに訪ね歩く書物となっております。グローバー氏は山を歩くジャーナリストでもあり、『山歩き(Vom Wandern)』という興味深い著書もあるようです。山を歩く歴史研究者(!?)を自称するぼくには、なんとも気になるところ。こちらもいつか読んでみようかな。

レイチェル・カーソン『沈黙の春』や、ジョン・レノン『イマジン』をめぐる考察のすぐあとで、アッシジのフランチェスコが登場するなど、グローバー氏の随想は、ヨーロッパ(それからアメリカ)の歴史に現れるさまざまな思想をあちらこちらと飛びまわります。本書での彼の主張は明確で、現在の「持続性」という考え方は、現代の技術屋さんの頭のなかから生まれたものでも、あるいはエコ運動家が編み出した物でもなく、(ヨーロッパの)歴史を通じて育まれてきた懐の深い思想である、というものです。

ゲーテ・インスティトュートのサイト「持続的に考える」でも、本書が取り上げられて、大絶賛されております(立派な語学学校であるゲーテのサイト上に掲載された記事である以上、この日本語訳はもう少し検討した方が良いようにも思いますが、まあそれはまた別のお話し)。ぼく自身は、本書を読んで(まだ読み終わってないけども)、たしかに大いに勉強させられはしたものの、例えば日本の社会がこの「持続性」概念を無批判に崇めて受け入れるのには慎重であるべきでないか、なんて思いを抱きました。少なくても、もっと議論があってしかるべきだと。グローバー氏が強調するように、「持続性」概念は、なんだかんだでヨーロッパやアメリカで培われてきた思想なのだから、それだけを世界基準の物差しにして考えることには無理があるように思うわけです。うーむ。まだまだぼく自身も整理できてないので、今日はここまで。読み終えて、また思うことがあれば、今度は改めて文献紹介の形で当ブログでも取り上げたいと思います。
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by schembart | 2011-06-17 23:20 | 読書
ダン・ブラウン(越前敏弥訳)『ダ・ヴィンチ・コード』上・中・下、角川文庫
ダン・ブラウン(越前敏弥訳)『天使と悪魔』上・中・下、角川文庫

言わずと知れた大ベストセラー。ある筋から飛行機のおともに最適だと強く勧められて、読んでみました。ミステリは読まず嫌いのぼくですが、いやはや、ただただ面白く読めました。時代遅れの誹りは、受け付けません。いままでは、ただ単に興味を持てなかっただけなのです。ごめんなさい。面白かったです。これぞエンターテイメント小説。映画もあるみたいだから、それも見てみたくなりました。『ロング・グッドバイ』のマーロウ探偵に比べると、主人公ラングドンはそれほど魅力的じゃないけども、謎が謎を呼ぶ展開の早さとキリスト教の歴史や美術作品に対する蘊蓄も満載で、一気に読み切ってしまいました。いまさら粗筋をどうのこうのと言うのもちょっと気恥ずかしいですので、やめときます。映画のDVDを探してみよう。

一時帰国で購入してきた文庫本も、残るところあと川上弘美『ざらざら』(新潮文庫)だけになりました。可笑しくもやわらかい小さな恋愛の物語を集めた短編集らしいです。ダ・ヴィンチ・コードとはまったく色合いの違う小説だろうな。小さくて、とても愛おしい世界がそこには広がってるはずです。読むのが楽しみだけど、読み切ってしまうのももったいないので、本棚に入れといて、この「読むの楽しみだな~」感をじっくりと存分に味わいたいと思います。いつ読めるかなー。
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by schembart | 2011-05-06 23:52 | 読書

冷静な振る舞いについて

村上春樹『雑文集』新潮社、2011年

一時帰国での読書日記。村上さんの新刊は、これまであちらこちらで発表されてきたインタビュー、受賞の言葉、海外版の序文、書評、音楽評、エッセイなどをかき集めてひとつにまとめたという、村上ファンのぼくにとってはよだれが出て仕方のないなんとも嬉しい一冊となっております。イスラエルでの「卵と壁」のスピーチも収録されております。あとがきに代えて展開される安西水丸×和田誠雑談も楽しめました。

気になったのは、『アンダーグラウンド』『約束された場所で』あたりの村上さんの仕事についてご自身で語った箇所。村上さんによる森達也監督『A2』に対する映画評を読めたのも嬉しい限りでした。ちょうど前に森さんの『A3』を読んだ後だったから。阪神大震災と共に、日本社会に大きな転換をもたらした1995年のオウム真理教による地下鉄サリン事件。その影響の深さは、あまりにも大きかったのです。ここ数年は、メディアで話題になることもずいぶんと少なくなったけども。

オウム事件の原因の根の深さについては、藤原新也『黄泉の犬』(文春文庫、2009年)を読みました。「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ」(『メメント・モリ』)で有名な藤原さんですが、本書は、1995年から1996年まで雑誌『週刊プレイボーイ』で連載された「世紀末航海録」を改題して2006年に刊行された単行本の文庫版。インドの地で青春時代を過ごした著者は、同じインドの地で重要な宗教体験を経たというオウム真理教の青年たちの姿をどのように見たのか。どこまでも藤原さん独特の言葉で語られるその文章は、とっつきにくいところもあるものの、はまってしまうともういけません。その文体はともかく、もっと多くの方に読まれて話題になるべき作品だと思います。

本書の前半では、「麻原は水俣病の犠牲者で、そのことが地下鉄サリン事件の遠因のひとつではないか」との思いつきから、藤原さんが麻原氏の実兄・松本満弘氏を訪れます。そこで満弘氏の口から語られたのは、どのような事実だったのか。連載時の突然の休載についても、本書ではその事情が語られています。オウム事件についてはいまだ多くのことが清算されないままであるという思いを強くしました。改めて考えさせられます。

おそらく、今回の東日本大震災と原発事故は、1995年の阪神大震災とオウム事件以上に、日本社会に大きな傷跡を残すだろうと思います。とくに原発事故は、オウム事件のように、明確な加害者グループやグル(いまでは悪玉を意味するようになりました)が存在するわけではないだけに―じっくりと見ていけば、オウム事件だって善悪の対決軸だけで語るのは難しいことは明白だけど、それはそうとして―、その対応においては、自己分裂症的な症状が現れざるを得ないだろうと思います。時間も長くかかるでしょう。そんななかで冷静な振る舞いを続けるのは、どうしたらよいのだろう。なんとも難しいことなのかもしれません。おそらく今、そのためにぼく自身ができるのは、自分がいまだ混乱の中におり、もしかすると間違った振る舞いをしているかもしれないという自覚を失わないこと、それだけなのかもしれません。あるいは今は、冷静な振る舞いということ自体、求められていないのでしょうか? うーん…。あれ、またなんだか、読書日記からいつの間にやら意味のない独り言になっていました。まあいいか、たまにはいいか。『雑文集』、『黄泉の国』、まったく質感の違う作品ですが、どうぞ時間のある方は読んでみてください。
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by schembart | 2011-04-19 22:53 | 読書

『ロング・グッドバイ』

レイモンド・チャンドラー、村上春樹訳『ロング・グッドバイ』ハヤカワ文庫

原著は1953年刊、清水俊二訳『長いお別れ』(早川書房)が1958年刊。村上春樹の新訳『ロング・グッドバイ』が2007年に早川書房から刊行され、それが2010年に文庫化されたのが本書です。準古典小説(訳者あとがき)としてミステリ小説界で確固とした地位を手にしているようです。

ミステリ小説、推理小説、探偵小説、ハードボイルド小説など、いろいろと呼び方はあると思いますが、じつはぼく自身、この手の小説をほとんど読んできませんでした。いつだったか、どこかの誰かのエッセイで「推理小説は、どうしたって面白く読めるのだから、若いうちには答えの出ない(犯人のいない)小説を沢山読むのが良い。老後の楽しみとして推理小説はとっておけ」というような文章を読んで、そういうものかぁと(何故だか無性に)納得してしまったのです。老後の楽しみは沢山あった方が良いに決まっています。だから、推理小説でちゃんと読んだものと言えば、アガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』くらいかもしれません。

そんななかの初チャンドラー。村上さん翻訳ということで、老後まで待てずに手にしました。うん。面白い。すばらしい。清水訳もなかなか評判がいいみたいだから、そちらも読みたくなりました。時間さえあれば原著も。チャンドラーさん、やるな。この分野に関してはまったくの素人だから、チャンドラーがどれほど特異な存在であるか、ぼくには判断のしようがありません。事件の真相がわかってもなお、もういちど読み返したいと思うのは、推理小説の世界ではよくあることなのだろうか。それとも、『ロング・グッドバイ』という小説が、やはりずば抜けて面白いだけなのだろうか。どうなんでしょう。

主人公は私立探偵のフィリップ・マーロウ。600ページ近くの大著だけど、次から次へと血みどろの謎多き事件がマーロウのまわりで起こるので、どんどんと読み進めていくことができます。このスピード感こそ、ミステリ小説の一番の魅力なのかもしれません。あるいは、謎がすべて明らかになった時のあの爽快感でしょうか。最後の最後までどうなることやらとはらはらしていたら、気が付いたら最後のページをめくっておりました。

でも、チャンドラーの他の小説が無性に読みたくなったかというと、これが不思議とあまりそんな気分にはなりません。なんでだろう。お腹一杯な気分です。マーロウさん、次に会うのはまたずいぶんと時間が経ってからになりそうだ。それまで、お達者で。さようなら。
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by schembart | 2011-04-06 21:24 | 読書

『A3』

森達也『A3』集英社インターナショナル、2010年

昨年末に刊行された森さんの『A3』を読みました。2005年から2007年にかけて雑誌『月刊プレイボーイ』で連載された記事をもとに、大幅な加筆や削除を加えて書籍化された本書には、麻原裁判の経過を追いつつ、麻原彰晃の生い立ちにまで踏み込みながら、一連のオウム事件の背景を客観的に説明できる(自身でも納得のできる)言葉を一心不乱に探し求める森さん自身の姿が描かれています。本書は、森さんの『A』『A2』という一連の映像作品、書籍の続編でもあります。

ちなみに、ぼくが『A』を見たのは、2007年5月のこと。あれは、かなりの衝撃でした。当時の日記を見ると、そこにはうまく事情を飲み込めずにあたふたするぼく自身の姿がありました。稚拙な文章で恥ずかしいけど、以下に引用します。

*****
森達也監督ドキュメンタリー『A』を見た。

オウムによる地下鉄サリン事件が起こったのが1995年。僕は13歳。中学生だった。テレビでは毎日、オウムや麻原の名前が出てた。僕はよく分からないなりにも、恐ろしい団体がとんでもない事件を起こしたんだな、というふうに思ってた。嘘みたいな事件だと思ってた。

『A』は、森さんがカメラを片手にオウムの施設内に入り、広報担当荒木浩(あらきひろし)を被写体に、オウムの内部を記録したドキュメンタリー。嘘みたいな設定だけど、本当。

見終わった感想は、正直、よくわかんない…。どう感じたらいいのだろう。10年前にテレビで見てた光景とは、全く違う世界が存在する。しかも、報道で流されてたよりも、もっと格段にリアル。僕は、この記録を見て、何を思えばいいのかな…。よくわかんない。頭のなかで、ぶーんといううねりが聞える。あの事件は、いったい何だったんだろう。

森さんの記録からは、僕らが生きてる世間の姿が、いつもとは違う角度から見えてくる。ビックリしたのは、警察の不当逮捕の件。真昼間の大きな通りで。あれが本当に行われたとは、いまでもちょっと信じられない。衝撃なシーンだった。。

いろいろとわかんなくなった。宗教、犯罪、裁き、世間、警察、人権、殺人集団、メディア、権力、組織と個人…。

それから、オウムは宗教なんだ、ということを今更ながらだけど、僕は強く感じた。

頭の中が、上手くまとまらない。また見るだろうな、こりゃ。森さんの本を購入。

森達也『「A」マスコミが報道しなかったオウムの素顔』角川文庫。

(2007年05月10日)
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あれ以来、森さんのそれまでの作品を読みなおし、新刊が出れば買うようになりました。ごつごつとした手触りのある森さん独特の文章に、どことなく心ひかれるところがあったのです。『死刑』(朝日新聞社)や『クォン・デ―もうひとりのラストエンペラー』(角川文庫)など、それぞれに心揺さぶられる作品も多いなか、やはりオウム関連の『A』シリーズは、それ以外の著作とは一線を画した(森さんにとっても、ぼくらのような一読者にとっても)特別な作品であるように思います。

今回だって『A』を見た時と同じくらいに戸惑っている自分がいるわけです。

本書の内容については、ぼく自身が粗筋を述べるのことにそれほどたいした意味もないように思うので、気になる方はぜひ手にとって見てください。ちょっと長すぎるし、重複する内容も多いし、読み進めてなにか明快な結論が導き出されるわけでもないけど、その何とも言えない、喉に骨が詰まったような、あの感じ(何と言えばいいのだろう?)こそが、本書の持つ特徴だと思うから。

本書に出てきた藤原新也『黄泉(よみ)の犬』(文春文庫)がとても気になったので、ドイツに戻る前に買ってみようと思います。
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by schembart | 2011-04-05 15:24 | 読書